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イラン~ペルシャの歴史

3/10夜:寄り道です。(これまた自〇じゃなかった、某ミュージシャン)
3/10午後:更新

ペルシャ帝国からイラン

イランとはかつてのペルシャ帝国である。
イラン戦争で、ペルシャの遺跡は大丈夫だろうか?イスラエルは軍事拠点のみ爆撃しているから大丈夫とは思うが、長期戦になればわからない。
私が強い興味を持っている、シリウス聖方位を持つペルセポリスは?
wikiよりペルセポリスの風景
イラン~ペルシャの歴史_b0398667_23061366.png

広角レンズで


ペルセポリスの聖方位。

ペルセポリスの位置
ペルセポリスの位置


以下AIの概要によると、
1935年、パフラヴィー朝の時代に国際的な名称がペルシャからイランへと変わった。「アーリア人の土地(イラン)」を国名とすることでナショナリズムの高揚と近代化をめざした。
1934年末、ペルシャ政府は各国に対し1935年3月31日のノゥルーズ(新年)からイランの名称を使用するよう要請した。
ペルシャは、アケメネス朝の出身者が出身地とした「パールス(ファールス)地方」が由来。
イランは「アーリア人の土地」を意味し、古代から国内で使われていた。
現在は「イラン・イスラム共和国」が正式国名。文化・歴史などの伝統的文脈ではペルシャを使用する。


以下はwikiを要約
ペルシャ帝国とは、現在のイランを中心に成立していた、アケメネス朝、アルケサス朝(パルティア)、ササーン朝の総称。

アケメネス朝 BC550年~BC330年
 キュロスが建国。メディア、リディア、新バビロニア王国を滅ぼし、新バビロニア王国により移住させられていたユダヤ人を開放し、バビロン捕囚を終焉させた。キュロス2世の息子カンビュサス2世はエジプトを併合し、古代オリエント世界を統一。ダレイオス1世がペルシャ戦争を起こしたが敗北。ダレイオス2世のときアレクサンダー大王により征服され、滅亡。

アルケサス朝 BC247~AD228
 パルティアとも呼び、古代中国では安息国と呼ぶ。セレウコス朝から独立、アルケサス一世により建国。共和制ローマとの抗争続き、帝政化したローマとの戦争も含めて第8次までパルティア戦争続く。反乱多発の末期に乗じてササーン朝に滅ぼされる

ササーン朝 225~651
 アケメネス朝の正統な後継者を称し、称号を引き継ぐ。ホスロー一世は突厥と同盟を結び、エフタルを滅ぼす。
ヤスデギルト3世の時代にニハーヴァントの闘いで正統カリフ時代のイスラム共同体に敗北して崩壊。

3朝ともにゾロアスター教、またはそれに近い宗教が信奉された。
(※ペルシャ由来の文物や拝火教は日本に大きな影響を与えている。シリウス聖方位もしかり。3朝以後のイスラムは、日本にはほとんど伝わらなかったのか?)

ペルセポリスは儀式用の都市であったという説もあるが、少なくとも創建当初には行政活動が行われていたことは、宮殿跡で発見されたエラム語の文書でわかる(BC457までのもの)。
帝国の中心としてはスサ(スーサ)のほうが重要であった。

スサの遺跡

宮殿のレリーフ

スサの位置 ペルシャ湾のちょっと上 その東方にペルセポリス
アケメネス朝ペルシアバビロンって聞いたことはあるけれど、どこ?? - 海外支援従事者のひとり言


ペルセポリスは前331年、アレクサンダーの攻撃により廃墟になる。
(今回のイラン戦争によりさらに破壊されはしないか?スサも?)


というわけで、間を抜かして(後回しにして)・・・
前の記事で中途になっているが、ペルシャがイランとなってからの、イラン革命に飛ぶ。



イラン革命

イエアンドライフさんのより詳細でないですが、まずは最低限の知識としてコンパクトに。
世界史の窓より

1979年、シーア派宗教指導者ホメイニに率いられたイスラーム原理主義勢力が、イランのパフレヴィー朝を倒し、政権を奪取、イスラーム教国家を出現させた変革。

 1979年2月11日パフレヴィー朝が倒れ、イラン=イスラーム共和国が成立した革命。パフレヴィー朝はアメリカ資本と結んで石油資源の開発などを進め、その利益を独占する開発独裁の体制を続けていた。皇帝パフレヴィー2世の強行した「白色革命」以来、政治、文化、日常生活などあらゆる面で西欧化を進めていたが、国民生活は向上せず、対米従属の度合いを増していた

ホメイニの登場

 それに対して16世紀以来のイランの国教であったイスラーム教のイランのシーア派(十二イマーム派)の信仰に立ち返ることを求める民衆の反発が強まった。皇帝政治を批判して国外追放になったシーア派最高指導者のホメイニ師は国外から反政府活動を指導し、活発に活動した。
 1978年、ホメイニを誹謗する記事が新聞に掲載されると、それを政府の陰謀であるとして暴動が起こり、宗教指導者に指導された学生や労働者、農民、市民が王制打倒を叫び始め、収拾をつけられなくなったパフレヴィー2世は1979年1月イランを離れ、皇帝政治が倒された。代わって亡命先のパリから戻ったホメイニが1979年2月11日、政権を掌握した。
 ホメイニは、シーア派の十二イマーム派の教義に忠実な「ファギーフ(イスラーム法学者)」による統治を掲げ、それまでのアメリカ文化の模倣を否定して厳格なイスラームの日常生活の規範を復活させた。裁判ではシャリーア(イスラーム法)が適用され、映画や文学、絵画もイスラームの教えに沿ったもののみが許され、女性には外出時のヘジャーブ(頭髪と肌の露出をさける衣服)の着用が義務づけられるなど、宗教色の強い、イスラーム原理主義を理念とした政治が展開されることとなった。
 1979年11月には、革命政府がアメリカに対して亡命した国王の身柄引き渡しを要求したところ、アメリカが拒否したため、革命支持のイラン人学生が激高し、テヘランのアメリカ大使館占拠事件が起き、81年1月まで占拠が続いた。

イラン=イスラーム共和国の建国

 革命政権は1979年から国号をイラン=イスラーム共和国と改め、イスラーム教シーア派の宗教指導者の指導する国家として出発し、さらにメジャーズ(国際石油資本)が革命の混乱を避けて撤退したのを受けて、石油国有化に踏み切り、資源保護の立場から石油輸出を制限する措置を打ち出した。そのため石油の国際価格が急上昇し、第2次石油危機をもたらすことになった。


3/10朝
16世紀以降とあるが、
●イランの国教がイスラム教になったのはいつからだったのだろうか?

AIによる概要
イランの国教がイスラム教(特にシーア派)になった歴史的経緯は主に2つの大きな転換点があります。
  1. 実質的な国教化(16世紀初頭): 1501年に成立したサファヴィー朝が、シーア派を国教と定めた。
  2. イスラム共和国としての確立(1979年): イラン革命により、イスラム法に基づく現在の体制が確立された。その詳細は…
1. サファヴィー朝による国教化 (1501年)
7世紀のイスラム化以降、長らくイランはスンニ派が多数を占めていましたが、1501年にサファヴィー朝の初代シャー(王)、イスマーイール1世がイスラム教シーア派の「十二イマーム派」を国教と定めました。これにより、強引とも言える伝道・改宗活動によって、イランはシーア派主体の国へと変貌しました。
2. イラン革命と「イスラム共和国」の樹立 (1979年)
それまでのパフラヴィー朝(1925-1979年)はアメリカなどと結び、世俗化・西洋化を進めていました。しかし、1979年2月11日、ホメイニ師が主導するイラン革命が起き、亡命政権が崩壊しました。
同年4月1日の国民投票で「イラン・イスラム共和国」の樹立が可決され、宗教指導者が政治を統治する国家体制へと完全に切り替わりました。
補足
  • 古代: ササン朝ペルシャ時代まではゾロアスター教が国教でした。
  • イスラムの伝播: 7世紀のイスラムの拡大により、ササン朝が滅亡して以降、徐々にイラン人のイスラム化が進みました。
  • 現在の位置付け: 現在は、シーア派のなかでも「ジャアファル学派(十二イマーム派)」が憲法上の国教とされています。

※なんとなくおおまかなイランの歴史は見えてきたが・・・課題はイギリスやアメリカがいつどのような形で介入してイランを歪めて来たかということ。そこには全世界的な大国による植民地的浸潤と分断支配の手法により、パフレビーもホメイニも利用されたという構図があるのではないかと思う。どこの国でもそれが起きたと。

ちなみにイエズス会が発足したのは1540年、イグナチウスロヨラとザビエルによって。16世紀です。
イルミナティはアダム・ヴァイスハウプトによって、1776年に。すると・・・次の質問が湧く。

●植民地主義が始まったのは?
AIの概要
植民地主義は、16世紀のヨーロッパ諸国(主にスペイン、ポルトガル)による大航海時代と新大陸への進出から始まりました。重商主義に基づき、金銀や資源の確保を目的に海外領土を征服・支配する形が確立され、その後、19世紀から20世紀にかけての帝国主義時代に全盛を迎えました。

イギリスの植民地支配が始まったのは?
AIの概要
イギリスは19世紀から20世紀初頭にかけて、インド、カナダ、オーストラリア、アフリカ諸国など世界中に広大な植民地を擁し、「太陽の沈まない帝国」と呼ばれました。これらは主に、直接統治(インド)や、入植者による自治を認める「ドミニオン」などの形態で管理され、経済的・軍事的に最大強国となりました。

●(私が気になっている)サッスーン財閥の起源は?
AIの概要

●「サッスーン家」は18世紀にバグダード(イラク)に台頭したセム系ユダヤ人富豪で、オスマン帝国の治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商。 後に清国で「アヘン王」と呼ばれた「デビッド・サッスーン」(1792年~1864年)はサッスーン家の子としてバグダードに生まれ、そこで活動していたが、シルクロードの交易によって益々その富を蓄え、ボンベイ(現インド・ムンバイ)へ移住。(写真は「デビッド・サッスーン」wave.ap.teacup.org)

● 彼は1832年にボンベイで「サッスーン商会」を創業し、インド産の「アヘン」を密売し始めた。 サッスーン商会はイギリスの東インド会社からインド産の「アヘン」の専売権を取得し、「アヘン」清国で売り、清国の銀を運び出し、とてつもない利益を上げた。 デビッド・サッスーン「アヘン王」と呼ばれる程になった。(上図は 1772~1842年の「三角貿易」体制)

 

(左写真は「1772~1842年の「三角貿易」nihonsi-jiten.com、右写真は「アヘンで財を成したサッスーンyoutube.com)「アヘン」は、ケシの実に傷をつけ、その傷からにじみ出る乳液を採取して作られる麻薬である。 「アヘン」は約10%のモルヒネを含み、精製の必要がなく、顕著な薬効がある為、昔から麻酔薬として使われてきた。清の時代に「アヘン」を薬としてではなく、タバコのようにキセルを使って吸うことが流行した。「 アヘン」は、吸い続けると中毒になり、やがて廃人になってしまうという恐ろしい薬。 

又 彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、アヘン紅茶は、彼の手の中で同時に動かされていた。「アヘン」を大量に送り込まれた清国では、「アヘン」が大流行して社会問題となった。清政府は密輸アヘンの取り締まりを強行、焼却処分では燃え残りが出るため、専用の処分池を建設し、アヘン塊を切断して水に浸した上で、石灰を投入して化学反応によって無害化させ、海に放出した。この時に処分したアヘンの総量は1,400トンを超えた。


●サッスーン財閥と上海の関係は?
サッスーン財閥は、19世紀から20世紀初頭にかけて上海を拠点に、アヘン貿易や不動産開発で巨大な富を築いたユダヤ系財閥です。特にヴィクター・サスーンは、上海バンドのランドマーク「サスーン・ハウス(現・和平飯店)」を建設し、「東洋のパリ」と呼ばれた上海の都市開発と経済発展に深く関与しました
デイヴィッド・サスーンは1792年にバグダードで生まれた。父のサスーン・ベン・サレフ(Sassoon ben Saleh、1750年–1830年)はスペインに起源を持つセファルディムの出身で、裕福な実業家であり、1781年から1817年までパシャ(バグダード太守)の首席財務官を務め、同市のユダヤ人コミュニティの長(ナーシー)でもあった。 一家はイラク・ユダヤ人・・・
バグダードのユダヤ人への迫害が強まる中、一家はペルシャ(現在のイラン)を経由してボンベイ(現在のムンバイ)に移住した。サスーンは1832年にはボンベイで事業を営んでおり、当初はイギリスの繊維会社とペルシャ湾岸の商品商人との仲介役を務め、その後、港湾不動産に投資・・・
南京条約によって中国がイギリス商人に開かれると、サスーンは自身の繊維事業を、収益性の高い三角貿易へと発展させた。インドの綿糸とアヘンを中国へ運び、そこで購入した商品をイギリスで販売し、イギリスからはランカシャーの綿製品を入手・・・
1845年、デイヴィッド・サスーン商会は、イギリス租界となる上海に事務所を開設し、そこが同社の第二の事業拠点となった。1844年には香港に支店を設立し、その1年後にはアヘン貿易で利益を得るため、上海のバンド(外灘)に上海支店を開設した。 サスーン家がバグダード・ユダヤ人コミュニティを率いてパールシーの支配を追い越すことができたのは、1860年代になってから・・・

パールシーとは?
インドに住むゾロアスター教の信者のこと。

サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかにはインドグジャラート地方に退避する集団があり、現在、インドはゾロアスター教信者の数の最も多い国となっている。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州ムンバイ(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、開祖のザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。

インドでは、ペルシャ人を意味するパールシーと呼ばれ、数としては少ないが非常に裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い。インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似する。インドの二大財閥のひとつであるタタは、パールシーの財閥である。

寺院はマハーラーシュトラ州のムンバイとプネーにいくつかあり、ゾロアスター教徒のコミュニティを作っている。寺院にはゾロアスター教徒のみが入る事が出来、異教徒の立ち入りは禁じられている。神聖な炎は全ての寺院にあり、ペルシャから運ばれた炎から分けられたものである。寺院内には偶像はなく、炎に礼拝する。

ロシア人オカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキーに始まる近代神智学に相当大きな影響を受けている・・・・


(※しらなかったことばかり。)


●東インド会社はいつ設立?
東インド会社は、17世紀初頭にイギリス(1600年)やオランダ(1602年)がアジア貿易の独占と植民地経営を目的に設立した特許会社です。特に1602年設立のオランダ東インド会社は世界初の株式会社とされ、株式発行で巨額の資金を集め、香辛料貿易で莫大な利益を上げました。


●イギリス帝国の起源は?
イギリス帝国(大英帝国)は、一般的に17世紀初頭(1600年代)の海外植民地開拓から始まり、第2次世界大戦後の20世紀半ば(1940〜50年代)に多くの植民地が独立するまで、世界各地に領土を持つ最大規模の植民地帝国でした。最盛期は19世紀のヴィクトリア朝で、「陽の沈まない国」と呼ばれました。

話がずれてしまいましたが、やはり「大英帝国」の支配、および「ユダヤ政商」の力が、数百年前から中東にも大きく力を及ぼしていたことが確認できました。

イエアンドライフさんの新しい配信では、トランプはこの英国のくびきを断ち切ろうとしているとの見解が述べられていますが・・・トランプに好意的に寄っている感じがし、私にはまだ判断できません。ただ、他ではあまり言ってない追及がされていて、興味深いとは思います。

記載途中



3/10夜
●寄り道です。
イエアンドライフの後藤さんが「人身売買」に関する動画を3週間前に出されています。
ニルヴァーナのメインボーカル&ギタリストのカートコバーンは、三浦さんらと同じく〇された、と。
アビーチィもそうだと言っています。
アビーチィが自〇ではないということを私は確信していますが、ちょっと前までは殆ど誰も触れていませんでした。for a beter day を見れば一目瞭然、こんなmvを出せばただですむわけがない時代だったのに、なぜ彼のファンたちも黙っていたのでしょう?この曲はアビーチィの人気ランキングにはまず出てこない曲なので、知らない人も多いのかもしれませんが、エプ・ファイルのおかげで自〇ではなかった説が浮上しているようです。
私は赫夜様に教えてもらうまでアビーチィ自体すら知りませんでした。
ニルヴァーナにも興味を持ったことはないし、カート・コバーンは名前すら知りませんでしたが、優しい目をしていますね。「この世界は狂っている!」ことに全力で抗い、精神がボロボロになってドラッグにはまっていったのか。純粋でナイーブな人だったのだろうと思います。




ニルヴァーナ(Nirvana)は、1987年から1994年にかけて活躍したアメリカのロックバンド。カート・コバーンを中心としたスリーピース構成で、1991年発表の『ネヴァーマインド』と代表曲「Smells Like Teen Spirit」が全米1位を獲得し、グランジ/オルタナティブ・ロックを世界的に流行させました。
ニルヴァーナNirvana)は、オルタナティヴ・ロック、またはグランジ先駆者として知られている。ローリングストーン誌選出「歴史上最も偉大な100組のアーティスト」第30位[5]

この曲が全米一位となったらしい。

https://www.youtube.com/watch?v=fQpllFPm8fw







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by suzutama369 | 2026-03-09 23:58 | Comments(0)

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by すずたま
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