夜刀神、夜塔神② 記載途中
2018年 12月 17日
一年近く、中途のままにしていましたが、少しづつ書き足しています(2019・11月)
・・・・・・・
夜刀神の記事も、まだ書きたいことをを追記するとかなり長くなりそうなので、その②とあらためました。
その➀のほうの最後に書きましたが、なぜ自分は夜塔神などという勝手な造語をタイトルにしてしまったのか?
「二十三夜の塔」なのであって、夜塔と単独に取り出すのはおかしい。なので、タイトル変えようかとずっと迷っていました。
しかし➀の最後になって、それでいいような気がしてきました。「二十三夜塔に宿る小さな不思議な神さま、夜塔神」というイメージが何となく浮かんだのです。いや、最初からその感じがあったから、夜塔神と書いてしまったのかもしれません。
二十三夜塔の起源は結局今のところ私にはよくわかりません。旧い製鉄のカミ・谷戸神とそれを奉じる谷戸の民の鎮魂のため建てられたのかもしれないし、仏教・神道が混然としていた時代に、消された上古22代ツキヨミ(タマヤ古文書によれば何代も続いたという)から23代オシホミミ(5代続いたと何かで読んだ)に繋がる月神系女神(の巫女達)の鎮魂慰撫の意味も込められたかも?両方の意味を密かに込めて夜塔にかけたのかもしれないし?そうすると歴史にも宗教にも通じたある程度の知識人がこの塔に複雑な意味と企図を込めてあちこちに建てて、消されていったものを慰撫しようとした?いやそんなむずかしいことじゃなくて、普通に考えられているように、単純に二十三夜の月への信仰があって、庶民の側からこの塔を建てることが流行したのだろうか?
しかし深い意味を込めて二十三夜塔を考案企図した知識人?が仮にもしいたとしても、そんな企図など知らない庶民に、とにもかくにも結果的に二十三夜塔信仰は広まり定着したのではないかと思います。
何より月待ちしながら飲食し親交を深めるのは庶民の楽しみでもあったし、仏教色が強まっていくにつれて月待ち塔や月待ちの講の行われるお堂を境内に持つお寺の僧侶が、集まった人々に飲食や娯楽的要素を盛り込みつつ同時に有難い講釈をする場にもなっていったと想像します。
その講のような場で、ありがたい仏のみこころのお説教や説話や、二十三夜塔の月神の癒しや励ましを最も必要としたのは、女性たち、とくに安産を願う女性や不妊の女性や流産死産した女性や死児を弔う女性たちだったような気がするのです。彼女らこそ今でいう同じ辛い体験をした人たちが語り合い励ましあい情報交換もする「~の会」のような連携の場を必要としていた。今でならネット上にそんなコミュニティがいくつも誕生しているが。(「月のひかり。」に書いた娘の体験や娘のブログに集まる同じような人たちの体験記を読んで、そんな気がしています)
稲城の妙見寺に残る茅製の角ある蛇を祀る行事は、五穀豊穣無病息災への祈願であるが、それは表の意味であり、じつは裏の意味では夜刀神を鎮魂していると、誰も言わないが私はそう思う。鎮魂するのは僧の唱えるお経であるが、じつは二十三夜塔にやどる月神、わたしの云う夜塔神そのものが夜刀神を鎮魂しているのではないか???
みずからも実体を隠されたが、その隠された月神自体が、虐げられたカミとその民を鎮魂しているという不可思議な構図。全くのオリジナルな想像です。
この月神は元々は困苦と哀しみ多い夜の時代を遍く(あまねく)照らす(なむだいしへんじょうこんごう・・・)、慈愛の月のひかりの神様であり、時代が下るほどに路傍のお地蔵様のように小さなささやかな神となって、人々を暖め続けてきたのだ・・・と、思いつくまま書いています。
本来その遥かな根源は産む女神(荒吐神)であるから、特に安産を願う、あるいは流産を繰り返したり早産したり死産したり、妊娠できなかったりする女性の拠り所の神仏として機能し続けた。
(娘は流産を繰り返したあげく、結局数日前「不育症」と診断された。不育症:妊娠しても胎児を誕生にまで至らせられない種々の身体的因子をもつ病いの総称)。そのショックと葛藤をそばで見ているから、今こんなことを書いている、と思う。彼女らは自分を責めるのだ、自分がこんな体でなければあなたを死なせることはなかった、ごめんねごめんねと。私から見たら自分を責めるのは全く理不尽に思えるが、母親にしかわからない感情らしい。大体私などは子供のない人生でも構わなかったのにどんどん安産で出産したから、どうしても子供を産みたいと思う人たちの気持ちがわかっていない。こんな他人事みたいな記事を書いていることは今は彼女には報せられない。さいわい私の家族は父の記事ちらっと見た以外に興味を示してないから助かる。
2019・11・19追記
さて、この角ある蛇、夜刀神に、私は出逢った、と思っています。
視えも聞こえもしない私ですが、そう思うに至ったいきさつをこれから書きます。
・・・というところで、なかなか旅行記としては長文になりそうなので、この記事は中途でそのままになっていました。
なかなか余裕がないので、結局以前吉田様ブログに書きこませていただいた出雲行の話を、手っ取り早くこちらにコピペすることにしました。それにまつわる褐鉄鋼の話もさんざん書き散らしたので、うんざりする方はスルーしてください。書き換えや字を大きくしたりなどの修正アリ。
- スサノオと龍蛇神 (すずたま)
- 2015-08-05 02:25:48
- 吉田さま、皆様へ。
今日は、私にとって内面的に大切な節目となった、最近のあるできことをお伝えさせていただくことにしました。題して「出雲で龍蛇神に逢った」。
親しくしているA子さんは、30代の平凡な主婦で3児の母ですが、やや敏感体質、霊媒体質です。
今年の2月頃のこと、A子家の子供たちと「千と千尋」アニメを見終わって、私が「名もないカミサマというか妖怪たちがみんな可愛かったね~」とか言うと、A子が突然きっぱりと、「名もないんじゃないよ、名を奪われたんだよ」、続けて
「アナタのすることは歴史を調べることじゃない、謝ること!」といきなり断言するのです。
「謝る?!はあ~??」
目がシロクロしましたが、ナニに謝れというのか、彼女との短い問答の中でわかったのは、私の先祖がしたことを怒っているカミサマ、つまり名を奪われた?神様がいるらしいのでした。女のカミサマだといいます。
そのときに浮かんだのが、以前に読んでいた吉田さまの記事の「蘇我氏の祭祀における縄文神の封印」の部分でした。
A子がいうに、土地のカミサマなのでその場所に行かねばならない。「来い」とそのカミサマが言っている。何もわからなくてもいいし調べる必要もない、ただ行けばよい。調べることはかえってよけいな汚れがつく。行けばわかる、と。
行けばわかるったって雲をつかむような話、いったい何処に? - 北九州から島根あたりの日本海側・・・と。広すぎる!
ちょうど出雲のことが気になっていたので中国地方の地図をみせると、彼女が指でたどって指し示したのは、西出雲の山あいの辺鄙な一帯です。ポイントとしては須佐神社と須佐温泉くらいしかなく、周りは山しかありませんが、その周辺一帯の山々を歩けばわかる、と。 - 4月のおわり、3泊4日の出雲への旅を計画しましたが、出かける数日前から頭痛と咳に見舞われ、始まったか…と思いました。悪くはないシルシであるもののしんどいな、と。行きの夜行列車・出雲ライナーでは喘息のように咳が止まらず近隣の乗客は大迷惑。欲張った計画どおり目的地以外にいろいろなところへ行きましたが、日御碕神社その他、何故かスサノオ関連の場所ばかり選んでしまい、あとまわしにした肝心の目的地でもスサノオの後継者たちの痕跡をとりあえず巡り始めていたのです。目的地とは須佐神社のある須佐地区を取り囲む佐田町一帯。佐田探索に大いに参考にさせていただいたHP「東須佐を歩く」によると、当地は山岳信仰系仏教が中世に盛んだったらしく、それも歴史に埋もれていて、土地散策は、とりあえずそのHP管理者様が追及している遺跡から始めたのでした。
- その中途です、「事故」に逢ったのは。つづく
- 続き (すずたま)
- 2015-08-05 02:27:22
- まずは一帯がよく俯瞰できるのではないかと出雲市で一番高く日御碕まで遠望できるという近くの王院山山頂にレンタル電動自転車で向かいました。電動でもだんだん坂道がキツくなりましたが、何でもないところでバランス崩し、自転車ごとモロにわきの溝に倒れ込み、溝にすっぽり嵌まり込んで空を見上げる格好となったのでした。不思議にちいさなケガしかありませんでしたが血は派手に出て白いズボンが真っ赤に。片側はまっさかさまの怖ろしい崖が続く急峻な場所。ふるえあがり、即座にカミサマに怒られたと思いました。スサノオを祀る須佐神社そのものも、王院山周辺に興ったという「山岳信仰系仏教」も、このカミの敵だということは、うすうすわかっていたからです。そのカミとはスサノオ(系の誰か)が封印した出雲の「龍蛇神」であろうか、という目星もつけての旅行だったのでした。
- その日は須佐温泉で傷をいやし、咳は出続け。翌日早朝自転車で出発、あたりをつけた場所に向かいます。本来の目的「出雲の女の神様に謝罪する」を果たすためにに大体の目星をつけて訪れた場所は、須佐神社南方の稲田地区を抜けた次の集落、原田地区。神戸川の源流となる小さないくつもの細い谷川が山々から流れ出す、その川の両脇に形成された狭い農地のひとつです。山々の裾のあちこちに浸み出る水を農地に引くための樋(とい)が設けられ、無数のせせらぎが神戸川の一支流をなし、驚くばかりの水の豊富さです。それが一見変哲もないこのささやかな農地の、実はどこにもない不思議な明るさと清浄さと豊かさを形成しているのでした。
そうです、ここは土と水の神様のふるさとなのでした。
近くの農家からも農地からも死角になりそうなひとつのせせらぎのそばを選び、黄色や紫の春の草花の咲き乱れる草むらに座り、瞑目しました。春らんまん。あふれる光と鶯の声とせせらぎの音の中で、ここに来ることができたことへの感謝と、祖先の過ちのお詫びとを小声で奏上しました。あとは、自分なりの習得した方法で拙いながらも熱意だけは精いっぱい込めて、ある種の儀式をしました。これは今は詳しく書きません。
対峙した相手は、たぶん「龍蛇様」です。全くたぶんです。
しかしそのことは帰宅後に見た夢ではっきりしました。
急峻な崖と崖にはさまれた谷川の上空にソレは浮き、視点はゆっくり崖の下方、谷の下流方向へ転じられ・・・斜め下方に向かって滑空し始めたかと思うと、前方にぽっかり黒い穴があき、物凄いスピードでソレは穴から地下に潜っていき・・・同時に「地竜」というコトバが浮かびました。
龍というよりも蛇に近い。龍神の中でもより地的な、水と土のカミだと思います。龍の体型よりも蛇の方が地下を凄いスピードで巡るのにふさわしいはず。(角はどうだか?視えたわけではなく、その視線の先を感じ取っただけなので、わかりません)
地下を高速で廻り、土地に清浄をもたらす純粋な蛇型エネルギー体、と感じました。
土地の豊饒をもたらす、「生む」カミですから、女のカミサマとA子が言ったのはうなづけます。
いわゆる出雲の龍蛇神とは何か、吉田大洋著の本にあるトミ族の末裔が言ったという「出雲神族の神は龍蛇神」というのがよくわからず、「龍とか蛇」のことで「りゅうじゃ」と読むのかと思っていましたが、はっきり「龍蛇(りゅうだ)」という存在があるのだと、かの土地への訪問と夢とで、実感しました。
怖そうではあるが、厳しさ激しさはあっても、土地に清浄と豊かさをもたらす、共に生きれば無限に優しいカミサマです。
出雲で逢って以来、温かいものがじわじわと心身を潤してくれています。
帰宅後、数年来の心身の不調、とくに今年初めからの重さがとれ、A子も私の旅行中の重さが帰宅後取れたそうです。つづく
- 続き2 (すずたま)
- 2015-08-05 02:29:33
- 須佐神社は、スサノオがクシナダ姫を娶り、最終的に自らの魂をとどめたと伝承のある地にあります。ある著名なスピ系霊能者がこの神社の神木のパワーを紹介して以来このバスも通わぬ辺鄙な地にある神社が有名になり、スピ系が押し寄せて木が気枯れしてしまったそうです。
神社の由緒で「スサノオはこの土地を気に入り、石や樹ではなく土地に名を残した」とあります。
つまり、佐田という清浄な土地に須佐という名を刻印した。佐田のカミの「名を奪った」ということです。
(佐田のカミというと、出雲の佐田(佐太)神社の佐太大神。この神社の祭神もわけのわからないことになっており、封印のあとがみえます。)
佐田は元々は「狭田」でしょう。わずかに平坦な地はすべて文字どおり「狭田」をなしていました。
山あいの谷川の両岸に形成される細長い土地です。
そして小さなせせらぎが合流してはいくつもの小川になり神戸川に合流していく。 - 元はこれらの川の両岸の葦がはえる湿地だったものを開墾して、狭いながら農地にした、ということが見てとれます。
- そして中国山地全体が鉄分の多い地なのでした。
- この地に住み着いた先住民、クシイナダヒメの祖は、葦の根元につく褐鉄鋼「すず」=「高師小僧」を採集し溶かして、最も初期の素朴な製鉄をし、鋤や鍬としたでしょう。この地の水がとりわけ鉄分を多く含むため、「すず」がたくさん取れ、しかも水の豊富なことから、彼らはこの地をえらんで住みついたのでしょう。シュメールとか、西方由来の民かもしれません。土地の「水と土のカミ」を大切にしたので、そのカミは彼らを護り、彼らと「共に生きた」のです。
豊葦原瑞穂の国の豊かさの源泉となった葦。弥生の始まる前、縄文のカミガミ(自然神)の時代に、鉄と稲、ふたつをもたらした。
サは古語で鉄を表すと、古代製鉄の研究本で読みました。
ダは田でもあるが、リュウダのダでもあるかもしれません。
サダのカミは、鉄と稲を産むカミ、蛇型の縄文女神とはこれだろうか?
一体一体はその土地限定の土地神だから、「会いに来い」と言われたのでしょう。
宇佐は菟狭、この狭も同じ。
「菟」は以前書きましたが葦や稲などの禾本植物の総称ではないかと考えており、宇の「生む」「生成」の働きを具体的に行う植物です。
宇佐族もまたシュメール?由来の初期製鉄の民でしょう。
宇佐神宮の南方にも佐田という地があり、川の両岸に形成された同じ地形です。
スサノオ(の一人)はこの「ウやサやダ」のカミを奉じる民を取り込み、結果このカミの名を奪います。
このカミは怒り、祟ります。祟りを封じるためにその子孫は、吉田さまの言う「敬いつつ鎮まっていただく、つまり封印」したのではないでしょうか。
名を奪うだけでも封印の働きがありましたが、その子孫は封印鎮魂の祭祀を行ったのかもしれません。
それはたぶん仏教的な封印だったのでしょう。 - その流れの初期に、辛嶋氏後裔が国東半島ではじめた山岳修験系仏教がありそうです。
- 安閑も蘇我もその流れにあります。佐田地区に痕跡を残す山岳信仰の跡もまた。
辛嶋勝乙女は縄文神を大切にするという以上にそれを土台にすらして、その上にユダヤ教や仏教や道教をひとまとめにして合体させたのに、子孫はまたもやばらばらにしていったのです。
- 続き3 (すずたま)
- 2015-08-05 02:36:43
- 長々すみません。
以下は私自身定かでない妄想としてお聞き流しください。
龍神も龍蛇神も鯰神も、龍神界の存在。龍神界とは人間界が創られる前にあった世界で、私たちの祖ともいえると思います。私たちの三次元世界の隣にあって、日夜私たちと深くかかわりつつ存在しています。
龍神界にはいろんなモノ(精霊)がいるでしょう。たぶん人間界と同じで、ピンからキリまで、善神から悪神までイロイロいると思います。人間側から悪龍を使役して善龍を封印するなどということもあり得るわけです。
本来のオオモノヌシとは精霊の王、龍神界の王でしょう。
オオモノヌシと同一視されるオオクニヌシもまた、本来は人間でなく、龍神界の最高峰、神界と境の無いあたりにおられる大神霊であると、ある本で読みました。(小桜姫物語:浅野和三郎の妻による霊界通信の書。龍神界の知見はこの本で得ました。) - (ヤマタノオロチは、皆様と意見を異にするとは思いますが、龍神界における黒龍的、サタン的なネガティブ存在ときいています。ただしサタンは堕天使であり、ある働きかけがあって改悛し、すでに天使になられています。これは今は詳しく書けません)
- スサノオはこの存在と戦ったのだと思っています。
この場合のスサノオは太古地球創世期にきた「神霊スサノオ」。そのとき「地球に巣くっていたネガティブ蛇」を封印した因果が、蛇とか悪龍と戦い続けるスサノオ族のカルマとなったかと思います。スサノオ霊を宿す人間スサノオは、人類史に無数にいたと思います。ヤマトタケルなどその系統かと。
メソポタミアにいたスサノオと、(辛島某女史がいう)列島から半島に出向いて大陸を開発したスサノオと、新羅方面から来て出雲を平定したスサノオは、別存在でしょう。仏教的封印に関わったスサノオも別にいるかもしれません。 - 「鉄で解く歴史」関係の書を漁って私が得た以下の考えは、真偽も定かでなく、ここに書くのも嫌なのですが・・・進んだ製鉄技法を持つヤマタノオロチ霊の系統にある部族(オロチ族?)が、初期製鉄族クシナダ姫系の土地に侵入して行ったことは、恐ろしい生贄を使う製鉄・・・(鉄の精製に必要なカルシウムやリンを得るため、人体を溶鉱炉に投入)・・・ほかの方法もあるでしょうにそれを行ったとすれば、悪魔的儀式の面があったはず。
そんなでヤマタノオロチを美化する立場には私はなれません。それを止めさせたスサノオは、たしかに出雲の英雄ではあると考えています。
蛇神にもいろいろあるということですが、スサノオ・モデルの一人(仏教で蛇を封印した人物?)は龍神界全体を敵視したように思えます。彼の時代に(六世紀ごろ?)龍神信仰界全体が霊力の競い合いと呪詛の投げ合いに堕ちていることを嘆き、仏教をこの国に根付かせようと決意のうえ、強引な出方をしたので、あとに「龍蛇」の怨みを残すことにもなったと想像しています。
私の父は仏教関係者ですが、龍神信仰を低くみる、という態度にこだわっていました。龍神の神通力などは呪術の世界への堕落を招くと言っていました。私の関わるカルマが父と蘇我の系統と何となく感じるゆえんです。
長々書きすぎました。勝手なことを書き散らし、申し訳ございません。
・・・・・・・
上記コメントをフォロウするかたちとして続けます。2018年12月にこの記事に書きこんだものに、書き足していきます。
西出雲の佐田で地竜に逢った
私がご挨拶に伺った女の神様、龍蛇神さん(地竜さん)のイメージです。
まさにこれこれ!これだ!と思ったのです。
沖縄の画家・野津唯市氏の「天女」
https://mintun.exblog.jp/d2015-09-26/
上の絵で、上部のひらひらした白い半透明のものがそのカミ。
角が生えている。
それを羽衣のように身にまとい、舞うようにしているのがその巫女。
巫女とカミが一体となって舞っている。(ミズハノメ、と浮かんだが?)
盗まれた天女の羽衣とはこれではないか?
彼ら先住民の大切にしていたカミそのもの =羽衣 ≒そのカミの援助で開発された土地と鉄資源・水資源などのインフラ。
そのカミの名を奪い、カミを奉斎する民の土地・資源を奪い、
カミそのものはその神威だけをいただいておいて、「霊威ある茅の輪」にしてしまった。(武塔神が腰につける茅の輪)
羽衣は木に掛けられていた。
夜刀神も木の枝のかげからこちらをうかがう怖い蛇である。
(3枚の月もイチイの木にかかる・・・)
羽衣を盗むとは、
角ある蛇・夜刀神を奉斎する巫女から、そのカミを盗んだ
つまり夜刀神の神威と谷戸神のもたらす鉄資源と農地、
それを掌握し支配下にした、
の意味ではないだろうか?
夜刀神の羽衣様の白いひらひらは何本もの尾を引き、
それは山々の襞(谷戸)から幾筋も流れ出る清流をも表しているようにみえる。
私はこの無数の清流を佐田の地で目にした。
異常なほどに水の豊富な地だった。
沖縄の天女伝説の天女とは、追跡アマミキヨ様の記事をいくつか読んで判断するに、縄文期の旧い製鉄+農耕民のカミを奉斎する巫女だったようです。そのカミは、初期製鉄および農耕を援助し、彼らとともにあった。火山の多い列島の水中の鉄分を分離して浄化すると同時に、その鉄分を褐鉄鋼として水辺の葦や萱、茅などの茎に付着させ、農耕に必要な鉄をも提供する、水から鉄を「産むカミ」だった。
ワカメなどの海藻にも鉄は付いたらしい。
だから出雲で和布刈(めかり)神事といって神前に若布(ワカメ)を供えるのは、鉄をつける若布だからこそ龍蛇信仰族にとって大切なものなのだった。
つまり出雲の初期製鉄&稲作は、沖縄から伝わったと考える。
龍蛇神の使いとも考えられた沖縄久高島のイラブーは、出雲では背黒ウミヘビとなる。
イラブ―やウミヘビは、海中の若布にもつく褐鉄鋼を、若布と一緒に食べる。
だから貴い鉄を体内に宿す、聖なる生物とされた、と思う。
沖縄に銘苅(めかる)家という家系があり、この縄文の天女とゆかりがあるらしい。
ミズハノメ・・・水葉の女・・・
上掲の絵は、水葉の女=「羽衣と巫女が一体になった天女」ではないのか?
住吉三神
日向国の橘(たちばな)小門(おど)の水底にいて、水葉も稚(わかやか)に出で居る神、名は表筒男、中筒男神、底筒男の神 ・・・
筒男のつつは古語で星を意味するという。つまり三神とはオリオン三星のことだというのが、ほぼ通説になっている。
本当にオリオンのことなのだろうか?
この三神は、水底にいるのだ。そして「水葉もわかやかに立ち現れる神」なのだ。
少なくともこの一文を読む限りでは、オリオンとはつながらない感じがする。
それに北極星ならともかく、位置をかえていく星座は海洋民の目印にもならないのではないか?
(私はかつて真弓常忠氏の高師小僧~すず鉄のことを書いた本に大インパクト受けて以来、「すず」フリークとなった。その私からすると、葦の茎につく褐鉄鋼は筒形であることから、住吉3神は根につくすず、茎下部、上部につくすずではないかという妄想を捨てきれないのだが・・・??水葉とミズハノメが響きあう・・・ミズハノメと前掲の角ある水神+その巫女が響きあう・・・)
■かつて須佐神社周辺で起きたこと
行けばわかると言われたがインスピレーションに導かれるタイプではないから、行った先で短時間で自分の祭祀のポイント地点を決められるよう、事前に地図と首っ引きで調べまくった。
決め手になったのは、HP「東須佐を歩く」にこの地域の写真があり、何気ない農村風景ではあるが、独特の空気感のある土地、と書かれていたことに、なにかぴんとくるものがあった。
そして短期間のうちに考えまくった。なぜ私はここに行くのか。
まずはポイント地点の須佐神社とは?
神戸川支流の須佐川ほとりにある。
「出雲国風土記」の須佐郷の条には、スサノオがこの地に来て最後の開拓をし、「この国は小さい国だが良い国だ。自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたと記される。
祭神 須佐之男命(すさのをのみこと)
配神 稲田比売命(いなたひめのみこと)
足摩槌命(あしなづちのみこと)
手摩槌命(てなづちのみこと)(須佐家の祖神)
ここでスサノオ神話を考える。
スサノオは天照の土地を汚し蹂躙した。
スサノオはヤマタノオロチを征伐し、オロチに苦しめられていたクシイナダヒメと婚姻した。
スサノオとは神霊スサノオと、その御魂を宿す無数の人間スサノオがいるらしいことは、信頼するk氏の言説でなじんでいた。
ヤマタノオロチ征伐の根源は、k氏の講話によれば、30億年前の地球に入った神霊スサノオが地球に巣食う邪悪な蛇を退治・封印した話だという。
夢にコトバが出てき始めた頃の最初は「スサノオは1人で8つの軍を征伐した」だった。
この8つの軍こそがオロチ、すなわち高志(越)のヤマタノオロチと云われる東北~北陸~出雲の日本海側にオロチ族ともいうべき製鉄集団ではないかと推論をたてた。それらが日本海側にいくつかの本拠地を作っていたと思う。彼らはイナダヒメの初期製鉄より進んだたたら製鉄集団だった。彼らの一グループは斐伊川周辺の鉄産地を掌握し、旧製鉄族の土地を簒奪し、支配下におくか追い出すかしようとしていたと考えた。
オロチ族は各地にグループをなし、それが八つ(たくさん?)の部族となって、その8人(たくさん?)の首長が出雲に一堂に会す機会が1年に一度とかあった、という説もどこかで読んだ。鉄の大産地斐伊川を持つ出雲は、たたら族にとって中心地であったはずだから、ありそうだと思う。
スサノオ(モデルの一人)は、集まった8人に酒を飲ませ、酔っぱらったところを一気に殺害した・・・他人のいくつもの説を総合しての、私の想像にすぎない。(集まって酔っぱらったところを?・・・ヤマトタケルの伝説にも似た話があったが・・・?ヤマトタケルもスサノオの系統ということか?)
クシイナダヒメ一族もオロチ族に制圧されようとしていて、巫女首長の稲田姫はオロチ族首長の餌食になろうと(娶られようと?)していた。
オロチ族を征伐して稲田姫を救ったスサノオは、稲田姫一家に婿入りする。
そのスサノオは、(あるいは出雲に来たスサノオとされる一統は?)、出雲に精神的な文化を持ちこみ生活を向上させた人であったらしい。出雲八重垣とかいう法律を作って土蜘蛛らの乱倫を正し、基本的生活規範を先住民に教えたともいう(吉田大洋の本)。
そのスサノオは、イナダヒメの一家に婿入りし、以後須佐家となり、稲田姫一家の祖神はスサノオの支配下となった・・・
繰り返すが、下記は私にはインパクトある伝承。
出雲国風土記に、須佐之男命が「この国は小さい国であるがよい処である。それで《石や木ではなく土地にわが名を残そう》と仰せられて、大須佐田、小須佐田を定められ、自分の御魂を鎮められた、という。
サダの地にスサの名を刻印した。サダの名は奪われた。それはシンプルなひとつの封印方法となったのではないか。
それが「須佐神社周辺で起きたこと」であろう。
吉田一気様のブログの記事にある「蘇我氏は縄文神を仏教を以て封印した」。
その頃、この言葉の聞いたこともない斬新さに、一気にそのブログにはまっていました。
誤りに行く場所を出雲と最初に特定するのに、この言葉がヒントになりました。
その次には「東須佐を歩く」というHPが非常に参考になりました。自分の祭祀ポイントはこれを見て大体の場所を決めた。
「須佐神社のある地区を地元では旧村名をとって東須佐と呼ぶ。東須佐はたしかに出雲大社に次いで古来から地元民の崇敬を集める須佐大宮を中心に発展したわけであるが、少し歩いてみると出雲周辺の他の地にはない独特な空気を漂わせている。周囲の山々も清らかで、太陽があり、田んぼが広がり、土地の人々はとっつきにくいが情がこまやかである。」
残念だが当時自分が写したその場所の写真はパソコンダメにしたとき、みんなパーになってしまった。(2018年12月記)
・・・・・・
11月21日
ここまでを後で読むと、出雲で櫛稲田姫(の系統)に関わったスサノオは、最低でも二人はいるのではないかと思えてきました。
最初のスサノオは出雲でオロチ族集団と戦って彼らを退け、出雲の初期製鉄&農耕民の竜蛇族に出雲八重垣などの法律を作って平和と文化をもたらし(穴居生活から向上させたと吉田大洋の本にはある)、彼らの巫女首長(櫛稲田姫?)に婿入りした。これは東出雲のほうで起きたことかと思います。
■大陸系仏教を持ち込んだ二人目のスサノオ?
それより数百年あとに、列島にペルシャ系の香りのする大陸系の仏教を持ち込んだスサノオモデルの一人がいるように思われるのです。この人が、吉田様ブログに書いたと思いますが、西出雲、神戸川上流に、農地は狭いが周囲の山々を要塞のように囲まれた清々しい別天地をみつけ、佐田の稲田姫家の後裔に婿入りして、佐田を須佐に変えて、仏教の種を植えたらしく、のちの中世にここが山岳仏教の地となるもとを作った、と考えました。
あるHPで知った、北燕王・馮弘(ふうこう)がその人ではないか、と考えました。管理者様はこの人物をスサノオとしています。
「仏教・出雲に伝来 大国主神=継体天王説入門」というHPにあります。
今はざっといきます。
HP管理者様によると、馮弘はアマテラスと後に表現される現地の巫女女王に「この国を荒らすようなことは絶対にしない」と誓約(ウケヒ)して、入国を許されたとしています。
私個人は、馮弘は最初に志賀島辺りに来て、土地の日の巫女と談判したのではないか、と勝手に推論たててみました。それがそのHPに云うところの「スサノオとアマテラスのウケヒ」かもしれないと。志賀島あたりと思ったのは、ここの叶という港が倭のナ国以来の国際港であったことと、近くに「弘」という港があることと、志賀島突端に勝馬という地域があることに注目したからです。
馮弘は5世紀前半、北燕滅亡のとき、同じ仏教国・高句麗に援助を求めて亡命しようとしますが、高句麗は地位争いでひっくり返っており、高句麗王の誰だったかが、日本に亡命を勧め、援軍に騎馬軍をつけて送り出します。
騎馬兵や馬を船に乗せ、歩揺(ほよう、歩くと揺れる長い耳飾り)や首飾りなどをつけたきらびやかないでたちの北燕最後の天王(天王とは仏教の守護者の意味という)が船から降り立ったのですから、アマテラスと後に表現されるその土地の巫女女王は戦う覚悟のいでたちで迎えたのでしょう。それで邪心のないことを証明するためにウケヒをして、ウケヒに勝ったので、入国を許される。それで勝や馬(騎馬族を率いていた)の字が志賀島周辺にあるのでは、と。ずいぶん乱暴な憶測です。
それからどういういきさつでどういうルートでか、安住の地を求めて出雲のほうに移動したと思います。
HPでは、この北燕王は生涯誓約を護り、佐田(須佐)に王宮を築き、そこで生涯を終えた、とします。ただし、その後継者は、あとで高句麗系の仏教と大規模な騎馬援軍を携えて「仏教十字軍」のようになって列島を制覇していったといいますが・・・?そしてそれが「継体軍」であるとするのですが?そして制覇のあとが、各地に残る高麗(こま)、駒、狛、クリ(栗など)などの地名を残すというのですが・・・?
「東須佐を歩く」によると、須佐神社に祀られるスサノオの王宮は元々は須佐神社の北の宮尾山の頂上(出雲市で一番高い王院山のつながりの西側の峰)にあったとし、土地の文献資料をもとに山に探索に踏み込もうとしますが、土地の人には、もはや木が繁茂して道もなくなっていると言われ、急峻な崖登りの場所もありそうで、探索はあきらめます。山上の元宮は里から遠いので、8世紀頃に今の須佐神社の場所に宮を移したと資料にあるそうです。
馮弘の直系子孫(継体軍とは別)はやがて大和に行き、一角をもらって(飛鳥の蘇我大王家に保護された?)やはり静かに暮らし、藤ノ木古墳がその稜だと言います。小さめの円墳です。藤ノ木古墳の遺物を治めた資料館には、15年くらい前に行きましたが、金や金銅やガラス玉を多用したキラキラのペルシャ系、まさに大陸経由、騎馬民文化を纏った仏教(ミトラ寄りの?)です。そして石棺の中の鮮やかな朱が目に焼き付きました。
A子は、私がその須佐神社あたりに来た人はキンキラ衣装だったんじゃない?と聞くと、「金と赤」と言っていました。まさにその通りでした。
■クナト大神とは
建速須佐之男命が高天原から追放されて足名椎、手名椎と出会うが、
この足名椎は大山津見神の子であるが、建速須佐之男命により
稲田宮主須賀之八耳神(いなだみやぬしすがのやつみみのかみ)と名付けられている。
ここで須賀と八耳という言葉が出てくるが、
この足名椎の子供の櫛名田比売命と建速須佐之男命の間の子である八島野命は
清之湯山主三名狭漏彦八島野命
=蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴
(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬみこと)という。
つまり須賀=清=蘇我(読みはsuga)となっていて建速須佐之男命が蘇我の養子となったように受け取られる。
また話が飛ぶが八耳は神八井耳命の系統に繋がるとすると聖徳太子も厩戸豊聰八耳皇子ことから蘇我と同系統ということになる。
一般的にはこの須賀は建速須佐之男命が『吾れ此処に来て、我が御心“清々(スガスガ)し”』と言った事からこの地名を須賀としたことにちなむとなっている。
しかしながら前述の通りこの地名の須賀が出雲の蘇我氏に繋がると感じている。
つまり神八井耳命─蘇我氏─建速須佐之男命─八島野命の関係が考えられる。
実際の記紀では
大山津見神─木花之開耶姫=瓊々杵尊─火遠理尊─鵜葺草葺不合尊─神武天皇─神八井耳命と
いう系統で考えると建速須佐之男命は天照大神・大山津見神の神代に登場しているが、
地上に追放された建速須佐之男命の活躍は神八井耳命以降となりそうである。
wikiより
『古事記』によれば、須佐之男命は八岐大蛇を退治した後、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まった。これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということで、「和歌発祥の地」とされている。
天平5年(733年)、『出雲国風土記』大原郡条に記載されている「須我社」に比定される。風土記の時点では神祇官の管轄ではなく、延長5年(927年)の延喜式神名帳には記載されていない。本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる。
背後にある八雲山には、夫婦岩と呼ばれる巨石と小祠があり、当社の奥宮となっている。この巨石は磐座であり、元は須賀の地の総氏神として信仰されていたものである。
天文年間(1532年 – 1554年)、当地に地頭として信濃国諏訪から中沢豊前守が赴任し、信仰していた諏訪大社の武御名方命を勧請して須我神社に合祀した。以降長らくの間「諏訪大明神」と称され、一帯の地名も「諏訪村」とされていたが、明治22年(1889年)に地名・社名ともに須我になった。
須我神社(赤印)と須佐神社●
(雲が幾重にも湧く出雲の地で、妻との新居によい場所を見つけた。妻のために垣根を幾重にも造ろう)
スサノオと稲田姫を祀るのは、八重垣神社。
八重垣神社 島根県松江市佐草町227
主祭神:素盞嗚尊
配祀 大己貴命、
青幡佐久佐日古命(『出雲国風土記』意宇郡大草郷条で須佐乎命の子として記載)
八重垣神社 公式ページから
高天原から出雲の斐の川上に降り立った素盞嗚尊は、老夫婦(脚摩乳、手摩乳)と稲田姫が泣いている様を御覧になられ、八岐大蛇を退治し、稲田姫の命を御救いになったのです。
この時、素盞嗚尊は、斐の川上から七里離れた佐草の郷"佐久佐女の森(奥の院)"に、大杉を中心に『八重垣』を造り、稲田姫を御隠しになりました。八岐大蛇を御退治になった素盞嗚尊は、ご両親の脚摩乳、手摩乳の御許しを得て夫婦となり、この佐草の地に宮造りされ、御夫婦の宮居とし縁結びの道をおひらきになられたのです。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を」
という妻をめとった喜びの御歌から、『八重垣の宮』となりました。
"天つ神"素盞嗚尊と"地つ神"稲田姫命の御二柱は、この地で結ばれた出雲の縁結びの大親神様で在らせられます。この御二柱を主祭神とした八重垣神社は、古来より朝廷、国司、藩主の崇敬が厚く、御神徳高い神の国出雲の古社・名社として位置づけられております。
八重垣神社、神魂神社●、熊野大社●、須我神社●
玉造(蘇我)、忌部の地名もみえる。
>建速須佐之男命が高天原から追放されて足名椎、手名椎と出会うが、
この足名椎は大山津見神の子であるが、建速須佐之男命により
稲田宮主須賀之八耳神(いなだみやぬしすがのやつみみのかみ)と名付けらる。
ここで須賀と八耳という言葉が出てくるが、
この足名椎の子供の櫛名田比売命と建速須佐之男命の間の子である八島野命は
清之湯山主三名狭漏彦八島野命
=蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴
韴霊とは、古事記・日本書紀に見える国譲りの神話に登場される武甕雷神(たけみかづちのかみ)がお持ちになられていた剣です。
またその後では、神武天皇が初代天皇として橿原宮にて御即位されるのに際し、無事大和(奈良県)にご到着されるのをお助けになられた剣でもあります。
神武天皇は御即位された後、その御功績を称えられ、物部氏の遠祖 宇摩志麻治命(うましまじのみこと)に命じて宮中にてお祀りされました。第10代崇神天皇の7年に勅命によって、物部氏の祖 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が現地、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)にお遷ししてお祀りしたのが当神宮の創めです。
天璽十種瑞宝とは、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天津神(あまつかみ)から授けられた十種の神宝で、それらには〝亡くなられた人をも蘇らす〟というお力が秘められておりました。
後に饒速日命の御子 宇摩志麻治命(うましまじのみこと)がこの神宝を用いられ、初代天皇と皇后の大御寿命(おおみいのち)が幾久しくなられることを祈られました。これが鎮魂祭(みたまふりのみまつり)の初めになります。その後宮中で韴霊(ふつのみたま)と共にお祀りされていましたが、崇神天皇7年に韴霊と共に現地、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)に遷されました。
出雲北西部には「馮・トミ連合王国」という国があったとの事です。
この国は王妃が宗教のトップで王が政治や軍事を担っていたけれど、事実上のトップは宗教行事の一切を取り仕切っていた王妃で、まさに女王の国だったそうです。王といえど女王の承認が無ければ政策を施行する事が許されず、女王の権限の方が上だったとの事。神仏習合の国で、女王は仏も列島古来の神々も等しく祭祀していた様です。
この馮・トミ連合王国女王は、磐井の乱の時には磐井と磐井の盟友である高句麗王・安蔵に援軍を出したとも言っていました。半島南部の倭人国家である伽耶諸国や新羅も昔氏朝までは、国王が代替わりすると、それらの国々の王達が出雲の馮・トミ連合王国に挨拶に来た程だと伯母は言いました。
馮氏とトミ氏の間には様々な紆余曲折や葛藤があったのでしょうが、最終的には連合王国となり、出雲先住のトミ氏の女王が実質上の元首となった様です。馮氏の男性王の方は政治的・軍事的な面でのトップだったとの事。
馮氏も古くは周王朝や夏王朝を建てた呉人と同族の「姞(キツ)氏だそうで、どうもこちらも古くは女王の国だった面影がありそうです。」
河内蘇我王朝(蘇我善徳こと舒明大王)の皇太子こと蘇我連子(天智大王)は、馮・トミ連合王国女王のオオド姫の女王配だったとの事です。
連子戦死後は、オオド女王が実質上の倭国大王で、唐の高宗と武皇后(後の武則天)と政治的な攻防を繰り広げたと伯母は言います。
「出雲の王子様はヒマラヤの『シャンシュン』という所に婿養子に行った、その旅の道中に儂のご先祖様が奄美の御殿で出雲の王子様御一行をもてなした。儂のご先祖様は王国(10世紀以前の古琉球王国か?)で主厨長(諸外国の首脳クラスの来賓をもてなす料理人達を束ねるトップ)をしていたから、高句麗やら扶南やら色んな所の王侯貴族達が奄美に来たと聞かされてるよ。」
との事です。
出雲~奄美含めた琉球諸島と東南アジア、ヒマラヤ・インド亜大陸とは繋がりがあったのかな?と思います。
トミと耳が隠れたなまえですよね。
埼玉県のどこかの氷川神社でも、八島士奴美神=大己貴とされていました。
トミと耳といえば、聖徳太子のモデルになった上宮法王にも共通しますが、上宮王家の方々で悲劇的な亡くなり方をした方々といえば、考徳天皇、有馬皇子、定恵(伯母説では=大津皇子)のお三方ですが・・・
継体天皇にも神武や素戔嗚尊同様複数のモデルがいる様で、誰がトミの血を受け継ぐ者と結婚したのか特定困難ですよね。
私の父方ご先祖様はどうやら櫛稲田姫の一族にも何やらやらかした様なのです。櫛稲田姫に感応を会わせようとすると、胸が重くなり胃もキリキリと痛み出してきますので・・・
過去世なのか何なのかは解らないのですが、私のDNAが記している光景とでも言いましょうか・・・
スサノオ(同名の男性王は恐らく沢山いた)には二人の妻がいました。
その片方が出雲の櫛稲田姫(既に蘇我氏の先祖である国栖と連合済)でもう一人が日向の向津姫です。
櫛稲田姫はあらゆる意味で縄文的な要素が強い女性で、向津姫はユダヤ的な要素と女神イシスを感じさせる様な、峻厳な女王でした。彼女は「おおいぬの姫」とも呼ばれていました。
私は常にその「おおいぬの姫」である向津姫の傍で、何らかの側近の様な女官の様な・・・そんな感じで彼女の近くにいるのです。
元から櫛稲田姫の王国と向津姫の王国は仲が悪く、スサノオはこの両者の国を結びつける為に結婚し、それぞれ櫛稲田姫と向津姫との間に子ども達をもうけました。スサノオは櫛稲田姫との子ども達と向津姫の子ども達とが結婚して、出雲と日向が一つになる事を願っていた様なのですが、スサノオの死と同時に櫛稲田姫の国と向津姫の国は再び関係がまずくなりました。
蘇我氏vs物部氏のバックには櫛稲田姫の国vs向津姫の国の背景を引きずっていたと、何故か私には強い確信があります。
大己貴命は櫛稲田姫の産んだ子供ですが、經津主の方は向津姫とは血の繋がりがある様ですが、彼女の息子ではなく、甥か何かで向津姫の婿養子になった感じです。
經津主は大己貴命軍を撃破しますが、陣中で經津主は没してしまいました。これで出雲を掌中に治められると思っていた日向は一転して窮地に立たされます。
そこで向津姫は娘と經津主との間に生まれた、孫の事代主ニギハヤヒを擁立して、軍を立て直し、出雲の櫛稲田姫と大己貴命を撃破しました。
でも向津姫の真意は出雲を倒す事ではなく、和睦で日向が出雲に降っても良いと考えていました。
でも、彼女の側の宰相(猿田彦?塩土翁?)は戦争継続を強行してしまった為、向津姫の真意が櫛稲田姫に伝わる事は無かった。
私は向津姫が出雲や櫛稲田姫との戦争なんて望んでいなかった事は痛いほどわかるのです。
私は向津姫の身の回りの世話をする女官か何かだったのだと思います。
向津姫の宰相だった猿田彦or塩土翁は、主君である向津姫の真意を歪めて櫛稲田姫に伝えた。
櫛稲田姫と大己貴命も向津姫との和睦と交戦かで迷っていたけど、抗戦派の取り巻きが力を持っていた事と、日向の猿田彦or塩土翁が向津姫を騙って書いた書簡の影響出雲と日向は一触即発の事態になります。
なので最終的には
櫛稲田姫・大己貴母子と(向津姫名を借りた)猿田彦or塩土翁の戦いだったと私は思います。
でも、物部が蘇我を制圧というか取り込んで、出雲が一つの大きな集合体としてのクニになって行ったのではないか?と私個人は思うのです。
でも、出雲と日向の仲を裂いたという点のみにおいて一番悪いのは、猿田彦or塩土翁だと思います。
猿田彦は向津姫の孫の事代主orニギハヤヒを錦の御旗にして、出雲を制圧した様に思えます。
恐らく圧倒的な日向側の軍事力に、出雲側が屈服せざるを得なかった事が想像されます。
出雲にはスサノオの外孫の事代主ニギハヤヒが幼き王として君臨。その摂政を猿田彦or塩土翁が行ったのだと思います。
これは私個人の妄想というか、夢現に見た光景なので、あまり真に受けないで下さい。
十種剣は、事代主ニギハヤヒから二代目素戔嗚が受け継いだ家宝です。(私の感覚では)
タギツ姫?+物部經津主 →事代主ニギハヤヒ
つまり物部經津主は向津姫の国に入婿した婿養子なのです。この物部もユダヤ的な(ユダヤ教徒という訳ではない)峻厳さを持った一族でしょう。
血縁からだけ見ると、スサノオから見ても物部經津主は婿に当たります。
話が複雑になる様で申し訳ないのですが、この物部經津主の母親は、向津姫の従姉妹辺りの息子であり、向津姫とも血縁関係にあると思います。
祖母が孫を擁立して出雲を制圧・・・何だか天孫降臨の元の話の様な気もしてきました。
タギツ姫?+物部經津主 →事代主ニギハヤヒ
つまり物部經津主は向津姫の国に入婿した婿養子なのです。この物部もユダヤ的な(ユダヤ教徒という訳ではない)峻厳さを持った一族でしょう。
血縁からだけ見ると、スサノオから見ても物部經津主は婿に当たります。
話が複雑になる様で申し訳ないのですが、この物部經津主の母親は、向津姫の従姉妹辺りの息子であり、向津姫とも血縁関係にあると思います。
祖母が孫を擁立して出雲を制圧・・・何だか天孫降臨の元の話の様な気もしてきました。
はい。自覚しています。(^^)
一口に物部と言っても、最初から一かたまりの「物部氏」だった訳ではないでしょうし、いわゆる飛鳥時代の物部氏になる迄には、長い時間を掛けて様々な民族が色んな場所を経て流入した経緯があると思います。
經津主や事代主ニギハヤヒも、尾興(欽明天皇)や守屋(敏達天皇)を排出する物部氏の遠祖位に解釈すれば良いのかな?と私は思います。
向津姫は櫛稲田姫や大己貴(素戔嗚・そかのお)が死んだ以上、無駄な争いや命の奪い合いは止める様に命じました。
素戔嗚の同母兄弟姉妹達や遺児達には、引き続き王族(現在でいう所の親王家の様な感じ?)として、領土を安堵した上で、これ迄通り櫛稲田姫が行った通りの統治を続ける様命じました。証拠がある訳ではないけれど、私にはそう思えてならないのです。
向津姫は櫛稲田姫と(そかのおの素戔嗚)母子を供養すべく、神社(元祖の氷川神社か?)を建立し、生涯かけてこの二人の祭祀に費やした・・・
向津姫亡き後は彼女の娘(タギツ姫?)に、その後は事代主ニギハヤヒに櫛稲田姫と素戔嗚尊の祭祀が引き継がれて行った様に思えます。
不思議なもので、この光景は私が高校生位の頃から断続的に見続けてきた夢なのです。
母方の祖父は進学の為に奄美から東京に渡って来ましたが、祖父の学友には「仲さん」や「新垣さん」がいました。お二人共に現在のうるま市ご出身です。
出雲の姫達がインドや東南アジアへ嫁いで行ったり、出雲王国の官僚クラスの人間がインドやセイロン島に行ったり逆もあったりした様です。
その中継地点が沖縄本島や奄美大島だと祖父が言っていました。
特に沖縄本島には赤道付近や南半球にあった国々の王侯貴族や官僚クラスの人間達が宿泊する迎賓館が複数あり、母方祖父の先祖は迎賓館の主厨長(総料理長)をしていたそうなのです。
生き残るために歴史の勝者について行った者や、敵対していたものと和解・和合するものもいたと考えるのが自然でしょう。
忌部氏とは、蘇我+小野+物部+もろもろの国栖の集団だと私は考えています。
サカ姫(スサノオの末娘)+事代主ニギハヤヒの夫婦の間に生まれた子供の誰かが忌部氏になったのではないか?と私は思うのです。その初代女王というかリーダー的な存在がタギツ姫(向津姫とスサノオの間の娘)の様な気がします。
多分彼女には幼い息子と異母妹(サカ姫)夫婦を見守ると同時に、摂政として活躍していたと思われる猿田彦or塩土翁を監視する役割でもあったものと思われました。
こんな私個人の夢の内容をまともに読んで下さるのは、すずたま様くらいのものです・・・
出雲は元々蘇我氏の遠祖(素戔嗚)が櫛稲田姫の国と婚姻をしていて王国をなしていたが、日向の物部の遠祖(経津主)に制圧された。しかしながら制圧した経津主も戦死したため、経津主の実子・事代主饒速日と素戔嗚の異母妹(サカ姫か?でも生母は櫛稲田姫の姪や従妹など櫛稲田姫の血縁者)が結婚し、間に生まれた嫡子が経津主系素戔嗚となり忌部系出雲王国が誕生した・・・
といった所でしょう。
未だ続きます。
でもこの事を他所で書いても、一笑に付されただけでした。
すずたま様の様に、納得して頂ける方はレアです。